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尖閣諸島問題について考えてみた [政治・社会]

学生の時のゼミ論文で中国の近代政治史について取り上げたことがあります。1983年のことでした。江青ら4人組による文化大革命の嵐が収束し、鄧小平が復権し、「改革開放路線」の端緒についたばかりの国で、30年弱の間でこれほどの大国になるとは、夢にも思いませんでした。

尖閣諸島を中国では「釣魚台」と呼ぶことに気が付いて、江青の事を思い出しました。毛沢東の正妻であった彼女は、釣魚台国賓館という中国の迎賓館(現在はホテル)を独占して居住していたからです。

そもそも、中国政府が尖閣諸島の領有権について主張を始めたのが1970年ですので、ちょうど文化大革命時代のことです。海底資源が発見された時期と符号する・・という見方と同時に、この「釣魚台」と言う名前自体が原因の一つだったのかもしれません。

その後、尖閣諸島の問題について鄧小平が1978年日本記者クラブで以下のように述べています。

尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう

鄧小平が四人組との凄惨な死闘の末、政治の表舞台に復活したのが、1977年ですから、その翌年のコメントです。まだ、彼の政治的な基盤は不安定で不確かで、気を抜くといつ保守派の巻き返しをいつ食うか判らない中で、日中平和友好条約の締結に来日した際のコメントです。

四人組が領有権を主張した尖閣諸島について、その非正当性について、恐らく認識しながらも、それを言うことが出来ない苦汁の言葉だと、個人的には理解しています。

その後の、中国の政権は反日教育をしようとした江沢民の時代を除いて、概ね知日派、心情的な親日派が続いていると思われます。鄧小平の実質的な後継者で、中曽根元首相との親交も厚かった、胡耀邦も親日派でした。Wikipediaで知ったのですが、中曽根当時首相が、1986年から靖国神社の参拝を辞めたのは、「(私の靖国参拝によって)親日派である胡耀邦が中国共産党内の批判にさらされて失脚する可能性があったからだ。それはどうしても困ることだったから」という理由だったそうだ。事実、胡耀邦は親日であることが攻撃対象の一つとなって、その後失脚することになります。

このように、中国の改革開放路線の政治家は周恩来・鄧小平以来、親日・知日派が多い一方、そのことが保守派から見れば弱点となり、アキレス腱となりうる。温家宝も胡錦濤も、この胡耀邦に繋がる改革開放路線の政治家です。昨年、温家宝が東京に来て早稲田大学で福原愛と楽しそうに卓球に興じて居たのは記憶に新しいと思います。

その温家宝をして、漁船の船長の即時無条件釈放を言わしめるのは、日本でも民主党でもなく、中国国内で未だ健在の保守派ではないだろうか、と容易に推測されます。事あるごとに、反政府的なデモを扇動し、格差意識を過度に刺激することで現政権を揺さぶろうとする保守勢力は、まだまだ強い実情で、「対外的に弱腰」と思われるようなポーズを取る事は致命傷になりかねない事情を斟酌する必要があるでしょう。しかも目と鼻の先に米軍が駐留している島に本気で侵略してくるとはとても思えません。

さて、マスコミも自民党も今回の中国漁船船長の釈放に対して、極めて攻撃的な論調です。私は、個人的には日本政府から温家宝へ、たかだか船長一人で「貸し」が一つ出来たのだ、と理解しているのですが。では、今回一番得をしたのは誰か?私はアメリカじゃないかと思っています。在日米軍の必要性をウッスラと日本人が考え始めていると思いますから。このタイミングで思いやり予算の値上げを言い出しているのも、偶然では無さそうです。


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